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ゆうあい工房

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祖父(父方)の想い出

 桜が咲く頃になると想い出す。だって、おじいさんが亡くなって50年だものね。21日におばあさんの27回忌済ませたこと日記に書いたけど、その兄が私の父方の祖父・・私のおじいさんなの。しかも、同じ3月に亡くなったのね。祖父は長男、そして、妹が2人いたの。
その下の妹が私の母の養母だったのね。母は茨城の士族(本家は華族の称号あったみたい?)の娘でした。母はその従姉が結婚して、逓信省(今の郵政公社)の医者として夫と満州に行くとき、乞われて家事見習い(いまで言う、ハウスキーパー)としてついて行ったの。そこで私の父と知りあったの。茨城の本家が怒って、母を勘当。父方の祖父はこれを聞いて、高知から何度か茨城に行ったけど
「土佐の田舎ものに自由恋愛は許さん」
と本家のおじいさんのひとことに切れた・・
「おまんがそう言うなら、うちで引き取るわ!常陸もんが何じゃえらそうに・・」

実は本家のおじいさんは母の実のお父さん、これはおじいさんが亡くなって知りました。母の戸籍上の父はおじいさんの兄、むかしはよくあったけど兄の奥さん(母方の祖母)と一緒になることが・・
ただ、そこに何か事情が生じて、正式になれなかったようね。私には分からない昔の旧家の事情が・・・。だから、先述の従姉は実は母の母ちがいの姉だったの。まあ・・そう言うことはまた今度・・

祖父は高知に帰り、母を自分の妹の娘にしたのです。

祖父は山持ちの息子として生まれ、若いときから林業に携わり、会社を興し、日本で二番目の森林組合を作ったのです。高知の人名辞典によると祖父の功績は、鉄道を四国の山の中に呼び込んだことです。現在の土讃線ですね。
 しかし、全財産をそのために使い果たしました。会社再建のため、父は姉(私の伯母)夫婦に高知の会社を頼み、満州に行ったのです。

私の中の祖父はいつも優しく、着物にフロックコート、山高帽子に下駄を履き、手にはステッキを持ったスタイルを想い出します。
その姿がよく似合っていました。
孫は沢山いましたが、内孫として生まれた女の子1人でしたので、ずいぶん可愛がってくれました。
戦後のことで、女性解放が進んだとはいえ、まだ田舎では家族主義が残っていました。旧家であり。村長をしていた祖父は一家の長として家族みんなの中心でした。田舎の家の囲炉裏端で、座る場所も決まっていました。男は一段高い場所の囲炉裏端を囲む格好で座りました。食事の時はそれぞれ個人の箱膳がありました。自分の茶碗や皿、箸がその中に収められているのです。私の箱全膳は一寸小振りの朱色です。中の器や箸も朱色の塗りで作られていました。
祖父の特注です。そして、私の座る場所、これが問題ですね。
実は祖父の膝の上です。両隣は父と長男の兄です。その横に他の兄たち3人が座ります。女は一段下の縁で土間に近いところで食べるのです。私は幼いときから祖父も認めた家族のおひいさんとして育てられたのですね。祖父のひとことには父も言うことを聞くと言うことを知った私はずいぶん祖父を利用しましたね。欲しい物があれば祖父に言って買ってもらいました。むかしは年金何かありません。費用を支払うのは父でした。今も兄には言われますね。
「おまんはえい星の下に生まれてきちゅう。何の苦労も知らず、のほほんとして・・ホントに極楽とんぼじゃ・」
この極楽とんぼは小さいときから親戚のみんなに言われました。
我が家は大所帯でした。会社の若い衆のご飯も作ります。
田舎の家も、私が住んでいた高知市内の家もいつも十数人の若い衆がいて賑やかでした。母は、2つの竈でご飯を炊いていました。

大勢の人を使う傍ら、我が家は貧乏でした。
祖父の料亭遊びが続いていたからです。まだ物心が付く前から私は料亭の検番にあづけられました。そのころ「本店」と言えば宮尾登美子さんの書いた「陽暉楼」のモデルとなった「得月楼」のことです。栄良さんや得良さんといった芸妓さんがいました。〔名前の漢字は当て字です)
何故か私を連れ歩いたのです。まだ、オムツが取れない頃です。

3月になると家の2階の床の間に、藤娘や潮汲みの人形を飾ってあった記憶があります。この頃は、茨城との交流も復活していました。私を介して・祖父は、毎年私の写真を送り続けていたのです。
私の3歳の祝いの時、茨城から、古い雛人形と大きな人形のついた羽子板が送られてきました。これらの人形は後の私の遊び道具になり分解されなくなってしまいました。おいておけばと残念です。
その日の祖父はご機嫌でした。大勢の親戚、祖父の友達等々に囲まれ、私という孫を皆さんに紹介してまわったのです。もちろん私に詳しい想い出はありません。でも感覚的に覚えています。肌の温もりは忘れませんね。そこには日本を動かす政治家の参加もありました。その様子を兄が写真に撮ってあったのを見て知りました。
残念ながらその時の写真を昭和45年・46年の洪水の時に流出で無くしたことです。それまでに写真や人形から私の記憶にあとから刻まれた想い出となりました。
 
 祖父は達者にある私を連れて川の向かいの山へ山菜取りに連れて行きました。木材置き場の下の船着き場から舟を竿で指していくのです。一応綱を張ってあるので、それを辿って手で引っ張ることも可能でしたがね。このとき祖父に習った舟の竿のさし方が私が成人して役立ったことは言う間でもありません。
 今はいないニホンオオカミと遊んだ想い出、可愛かったポンタとの別れ(蛇に食べられた話は前の日記に書きました)、川でゴリを捕っこと、浦戸湾でのにろぎ釣り、川でしゅうびん(飛び込み方)を教えてくれたこともあります。

こんな話があります。
祖父「わしの下がない。どこぞいってしもうた。しらんか?」
母「ベランダに干しちょりましたぞね」
確認した母は、祖父の「下」の行方が分かったようです。
外で遊んでいた私の様子で一目瞭然です。私の格好は。着物姿に、木刀代わりに薪を持ち木の上で威張っていました。その頭がです。
頭に巻き付けたものが祖父の「下」だったのです。
そのころ嵐寛十郎の「鞍馬天狗」、チョビ松の松島トモ子で、大流行中でした。そう、私は鞍馬天狗になっていました。男の子を従えてチャンバラ遊びの中心です。これは小学校まで続きました。
小さいときから兄たちの上にいた私は人は自分に使える者、自分が一番と思っていました。後に父から二番を目指せといわれたこともこのころの私が原因かも知れませんね。反省(--;)
祖父の「下」といったのは、ふんどし漢字で書くと「褌」ですね。
今ではお相撲さんのものしかみかけません。もっとも祭りでは今も使用していますね。

母「やはり、またおまんかよ。こりんねえ。今日は梯子段の下には  いっちょり」
祖父「まあ、そんなにきつうせんでも・・えいじゃんかのうし」
祖父のくちぐせは「・・・のうし」でしたね。
仕方なく自分から梯子段の下のもの入れにのこのこと入り込みました。すると祖父が懐中電灯と、本を差し入れです。梯子段の下は実は食べ物を保管してあるので美味しいものがいっぱい、懐中電灯で本を読みながら、ムシャムシャとかじったものです。
時間が来て
母「夕ご飯じゃき、でてきいや・・」
そしてわたしのようすをみて、
母「おじいちゃん、困りますね。躾になりません。全く女男やね」祖父と私は指で○をつくってにやり・・私が4~5歳の頃のことです。
 その頃、祖父は若い頃からの酒の飲み過ぎで、胃潰瘍になり血を吐いていました。病院を入退院していました。そして3月のある日、若い看護婦さん(実は本店の芸妓さん)の手を握って旅立ちました。最後まで洒落を忘れない明治青年でした。享年77歳でした。

祖父の葬式は村の人たちが参加の盛大なものでした。何日も続いたかのような気がしました。逸話が幾つも残っています。それはまたの機会に何処かでご紹介します。
祖父が無くなったのは私が小学入学寸前の3月でした。春の訪れ、特に桜が咲くと祖父が会いに来てくれたような気がします。
祖父が亡くなった年の私の夏休みの想い出の絵日記に祖父のことがいっぱい書かれていました。その絵日記は長男が小学校に入学したとき、その校長室から発見された中にありました。不思議な縁です。教頭先生からもらって驚きましたね。残念ながら先述の洪水でなくしました。でも私はそれを見たことで祖父の思いで酢鮮明な記憶として今に残すことが出来ました。感謝です。(^||^)


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